血中ナノマシンのオーバードライブが完了した。
主観時間の解像度が、通常の二千倍へと引き伸ばされる。
地上と地下を繋ぐ第三連絡通路。天井の亀裂から落ちる水滴が、空中に固定された透明な無数の画鋲に変わった。
換気孔から漏れるピンク色のネオンを乱反射するその一粒一粒を縫うようにして、九ミリ徹甲弾が「鈍重に」空気を押し分けてくる。
距離、二メートル。
前衛の少年の腕に埋め込まれた銃口から噴出した発射ガスは、まだ不均一なオレンジ色の花弁の形を保ったままだ。
少年の喉元に埋め込まれた矩形の端末が、暗がりの中で緑色の数字を明滅させている。
[Code:42 / 残存:1420日]
彼女の人工脊髄が、回避ではなく「迎撃」の演算を終了する。
右手の単分子ブレードを抜く。
カーボンナノチューブの筋繊維が断裂寸前の出力を叩き出し、刃が空気の層を裂きながら跳ね上がる。
弾丸の先端と、極薄の刃が交差する。
弾き飛ばすのではない。回転する鉛の弾頭が、絶対的な硬度の前で左右へ「流体のように」引き裂かれていく。削り取られた金属の破片が、彼女の頬の皮膚から数ミリの距離をすり抜けていく。
弾丸を両断した刃は、そのままの速度と軌道を維持し、少年の頸動脈へ向かって滑っていく。
重装甲に覆われた[Code:42]の電子義眼が、ここでようやく焦点を合わせようと、微かにレンズを駆動させた。
肉の頸を断ち切る感触すら置き去りにし、彼女の足裏が次の床を蹴る。
三つの銃線を縫い、さらに一つの喉を切り裂いて包囲の網目を抜けた。二つ目の肉塊――[Code:58]の頭部が、切断面の角度を保ったまま空中に取り残される。
致死の幾何学は完璧に成立していた。
しかし、演算の底に沈んでいた「物理的な重さ」が、彼女の腹部へと到達した。
速度に頼らない、純粋な質量の塊。
三人目の少年――[Code:63]が銃を捨てて繰り出した右拳が、ケブラー繊維の防弾布を限界まで引き伸ばし、その奥にある腹直筋の壁へと衝突する。
接触から〇・〇一秒後。
表面の衝撃波が、皮膚から筋肉の層を抜け、内臓の海へと波及する。
胃袋が暴力的に圧縮され、横隔膜が強制的な痙攣を引き起こされる。
肝臓の膜が軋み、肺から空気が根こそぎ叩き出される。
声帯は、無音の呼気すら形にできない。
呼吸が、世界から一時的に消失した。
痛覚神経が「破壊」をエンコードし、脳髄へエラー信号を叩きつける。
視界の端で、赤い警告灯が網膜を貫くように明滅する。
それでも、彼女の人工脊髄は「停止」を許可しなかった。
肋骨の軋む音を置き去りにする。
腹を抉られ、くの字に折れ曲がろうとする肉体のベクトルを、強引な神経加速(オーバードライブ)で前方への推進力へと書き換える。
口から吐き出された血と胃液の飛沫が、空中に赤い点となって静止している。
その微小な粒を自らの顔面で切り裂き、彼女の踵が床を踏み抜いた。
[Code:63]の装甲服の内側で駆動音が鳴る。
少年の脳と同期した外部のアンドロイド――「妻」が、致死の弾道を演算し、彼の肉体を操り人形のように最適化している。オプティマの「婚姻」。彼らは二人で一つとして戦場に立ち、少年だけが二十歳で壊れる。
Mitsu9o1の脳に、同期する外部演算はない。
血中に生着した出荷漏れのナノ粒子は、すべての過負荷を彼女一人の前頭葉に叩き込んでいる。
背後へ回り込んだ四人目の少年――[Code:77]が放つ散弾の軌道。その六十四発の鉛玉の隙間を、彼女は自身の脳髄だけを削りながら逆算する。
鼻血が噴き出す。シナプスが数億回ショートする。
踏み込み、目の前の[Code:63]の胸部装甲の隙間へブレードを滑り込ませた。
心臓の破壊。同時に、同期を絶たれた外部のシステムが甲高いノイズを上げてシャットダウンする音が響く。
崩れ落ちる[Code:63]。彼を守れなかった、通路の奥の妻。
Mitsu9o1の足は止まらない。
散弾の網目を抜け、最後のひとり――[Code:77 / 残存:1096日]の懐へと滑り込む。
[Code:77]の背後には、白い人工皮膚の妻が立ち、少年の延髄から伸びる半透明の同軸ケーブルを握っていた。妻の顔には凹凸がなく、緑色のスリットだけが高速で明滅している。
〈後退して、あなた。右腕の装甲で射線を――〉
妻の合成音声が完了するより早く、Mitsu9o1のブレードが下から上へと跳ね上がった。
狙ったのは頸ではない。前に突き出された[Code:77]の右肩、装甲の継ぎ目。
単分子の刃が、カーボン繊維と鎖骨、上腕骨の関節包を一切の抵抗なく通過した。
散弾銃を握ったままの[Code:77]の右腕が、根元から空間ごと切り離される。
切断された腕が回転しながら宙を舞い、ようやく重力を取り戻した最初の一人目の血の雨が、通路の床へと降り注ぎ始めた。
引き伸ばされていた時間が、轟音と共に収束する。
三つの死体が同時にコンクリートの水たまりを叩き、ピンク色のネオンの反射をどす黒く塗り潰した。
右腕を失った[Code:77]は、肩の断面から赤い飛沫と黒ずんだオイルを撒き散らしながら、壁際へと叩きつけられる。人工筋繊維の束が断面から垂れ下がり、露出した神経回路が火花を散らしていた。
通路に、水滴の落ちる音だけが戻る。
床に膝をついた[Code:77]の背後で、無傷の妻が少年を見下ろしていた。
〈損傷率、三八パーセント。右腕部の完全欠損を確認。戦闘継続は不可能です〉
無機質な声が、硝煙の漂う通路に響く。
[Code:77]の喉元の端末で、緑の数字が激しく点滅した。
〈これより、廃棄処理に移行します〉
妻の白い指が伸び、[Code:77]の延髄から同軸ケーブルを無造作に引き抜いた。
乾いた金属音が鳴り、少年の肉体が一度だけ強く跳ねる。
妻のスリットに緑の決済ログが高速で流れ、そのまま光が消えた。
役目を終えたアンドロイドは、床に転がる少年を一瞥することなく、踵を返して通路の闇の奥へと歩き去っていく。規則正しい靴音だけが遠ざかり、やがて換気扇の唸りに呑まれた。
Mitsu9o1は一度も歩みを止めない。自身の寿命だけを削りながら血の海を踏み越え、ブレードをひと振りして刃の脂を払うと、そのまま下層へと続く階段を降りていく。
廃棄区画の最下層。稼働を止めた循環液のプール跡。
乾いた底を一定の歩幅で横切りながら、Mitsu9o1は右の眼窩で蠢く無数の蛆(マゴット)の微細な質量を演算している。
潰れた眼球と壊死した毛細血管。数十匹の白い幼虫が、腐敗した肉だけを正確に貪り喰う。彼らの機械的な摂食活動が、敗血症による彼女の完全な機能停止を物理的に遅延させていた。
オプティマのシステムからこぼれ落ち、伴侶を持たないエラー個体。
今、彼女の肉体の内側に寄り添っているのは、この沈黙する虫の群れだけだ。
天井から剥がれ落ちた一滴の結露が、暗闇を垂直に落下する。
それが前方のコンクリートに叩きつけられ、微小な飛沫となって飛散するまでの静寂。唯一残された左の瞳孔が、その水滴の軌道を反射して、虚空の中で青白く開かれている。
Mitsu9o1のブーツが、その飛沫の上を踏み抜いて通過した。
その背後で、水たまりを踏む別の音が鳴り始めた。
ザッ、と靴底を引きずるような、不均等な足音。
暗がりの階段の上から、右腕を失った[Code:77]が降りてくる。
妻にケーブルを抜かれ、婚姻を解除された少年。その顔からは、苦痛の歪みも感情の出力も完全に消え失せていた。右肩の断面から血の糸を垂らしながら、ガラス玉のような二つの眼球が、ただ前を行くMitsu9o1の背中だけを捉えている。
重心の狂った身体が、壁に左肩を擦りつけながら、一定の距離を保ってついてくる。
Mitsu9o1は振り返らない。歩調も変えない。
ただ、潰れた右眼窩の奥で虫が蠢く微かな音と、背後を引きずる不均等な足音だけが、暗闇の中で重なっていた。
最初の弾丸を両断してから、引き伸ばされた時間が収束するまで。
ここまで、三・四秒。
残り、一〇七九日。
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