乾いた冷却液のプール跡を抜け、Mitsu9o1のブーツが錆びた鉄のグレーチングを踏む。
一定の歩幅。一定の速度。
その三メートル後方から、靴底を引きずる不均等な擦過音が、正確な遅延を伴ってついてくる。
右腕を肩の根元から失った[Code:77]の肉体は、重心が左へと大きく傾いていた。断面の露出した血管からはすでに大量の血液が失われ、代わりに凝固剤を含んだ体液と黒ずんだ内部オイルが混ざり合い、歩くたびに床へ黒い点線を引いている。
少年の喉元に埋め込まれた矩形のガラス面では、配偶者を失った後もなお、緑色の数字が規則正しくカウントダウンを続けていた。
[Code:77 / 残存:1096日]
グレーチングの通路が途切れ、視界が開ける。
廃棄区画の縁。上層から落とされた不要物を集積する、広大な吹き抜けの空間が広がっていた。
通路の両脇には、長さ数十センチほどの小さな移送用カプセルが、何千個も山のように積み上げられている。
すべて蓋が開けられ、中身は空だった。湾曲した強化ガラスの内側には、乾いた羊水のような白い結晶と、引き千切られた細いチューブの残骸だけが付着している。
積み重なったカプセルの側面には、緑色の電子ラベルが微かな残光となって張り付いていた。
同じ文字列が、暗い山の斜面を埋め尽くしている。
そのカプセルの山の背後、剥き出しになったコンクリートの壁面に、無数の細い溝が刻まれていた。
機械の刻印ではない。鋭利な金属の先端で、人間の手によって一本ずつ引っ掻かれた縦線だ。四本の縦線の上に、それを束ねる一本の横線が引かれている。五本で一束のその印が、壁の端から端まで、何百、何千とびっしり並んでいた。
だが、その一番端、最も新しく削られた最後の一束だけは、縦線が四本で止まっていた。横線は引かれていない。
Mitsu9o1の左目は、カプセルの山にも、壁の刻み目にも向けられない。
潰れた右の眼窩の奥で、壊死した肉を喰らう蛆の群れが微かに蠢く。彼女は正面の暗がりだけを見据え、一度も歩調を変えずにその横を通り過ぎていく。
三メートル後ろを歩く[Code:77]が、カプセルの山の前を通過した瞬間。
通路の天井に張り巡らされた監視用の光学センサーが、音もなく旋回した。赤いレーザーの走査線が、暗闇を切って[Code:77]の頭上から足先までをなぞる。
壁面の古いターミナルが、乾いた駆動音を立てて緑の文字列を吐き出した。
ログの更新と同時に、集積場の右側の壁面――積み上げられた空のカプセルの山のさらに奥で、重く鈍い金属音が響いた。
廃棄区画への不法侵入および未処理のスクラップを排除するための、自律型防衛機構。四脚の重機のようなフレームに固定された大口径のガトリング砲が、油圧シリンダーを軋ませながら砲身を水平に持ち上げる。
ここには、少年も妻も配置されていない。ただ設定されたプログラムに従って、不要な質量を物理的に粉砕するだけの鉄の機構。
複数の照準レーザーが、Mitsu9o1の右側面――潰れた右目の完全な死角へと収束した。
薬室に一二・七ミリ重機関銃弾が送り込まれ、六本の砲身が回転を開始する。
Mitsu9o1の聴覚が、空気を震わせるモーターの初期駆動音を捉えた。
だが、彼女の首が右へ回るよりも先に、背後で不均等な足音が弾けるように乱れた。
[Code:77]が、床を蹴っていた。
妻による外部演算を失い、同軸ケーブルを引き抜かれた少年の肉体は、最適化された兵士の動きには程遠い。
神経信号と人工筋肉の連動はひどく不正確で、踏み出した左足が床のオイルに滑って大きくバランスを崩す。
通常の少年兵であれば〇・一秒で完了するはずの移動に、倍以上の時間を費やしながら、それでも[Code:77]の身体は前へと投げ出された。
Mitsu9o1の右側。潰れた右眼窩のすぐ横へ、[Code:77]の半身が滑り込む。
彼女より、わずか半歩だけ前。
直後、ガトリング砲の銃口からオレンジ色の閃光が噴き上がった。
秒間数十発の鉛と銅の塊が、音速を超えて空間を水平に薙ぎ払う。
最初の一発が、[Code:77]の左太腿の装甲を正面から粉砕した。
強化プラスチックの破片が飛び散り、その奥のカーボンナノチューブ筋繊維が束ごと引き千切られる。大腿骨に亀裂が走り、肉の裏側を突き破って後方へと血と脂肪の塊が噴き出した。
二発目、三発目。
回転しながら飛来した大口径弾が、[Code:77]の左脇腹から腹部にかけて連続で着弾する。
防弾繊維が内臓ごと内側へとめり込み、肋骨の下部が粉々に砕け散った。衝撃のエネルギーが逃げ場を失い、少年の内部で臓器を掻き回す。背中の装甲が内側から膨れ上がり、継ぎ目から黒いオイルと鮮血が霧状になって噴出した。
四発目。
すでに腕を失っている右肩の断面、そのわずか数センチ下を弾頭が抉り抜く。
凝固しかけていた血管と人工神経の束が再び暴き出され、鎖骨の残骸が白い破片となって空中に舞った。
圧倒的な運動エネルギーの連続衝突。
[Code:77]の肉体は、銃弾を受けるたびに激しく後方へと弾かれ、全身から赤い飛沫を撒き散らした。
それでも、少年の喉からは、うめき声ひとつ漏れない。
妻に廃棄され、痛覚と感情の出力を遮断された脳は、肉体の損壊をただの物理的な質量変化としてしか処理しない。
砕けた左足の膝が、限界を超えて逆方向へ曲がりかける。
だが[Code:77]は、残された左手の指先を、横にある空のカプセルの山へと強引に突き立てた。爪が剥がれ、ガラスの縁に血の筋を引きながら、彼はMitsu9o1の右側の射線を塞いだまま、倒れずにその場に踏みとどまった。
Mitsu9o1は、一度も[Code:77]を見ない。
自分の右肩の数センチ横を掠めていく血飛沫の角度と、肉の盾を貫通して減速した弾頭の軌道。それだけを左目の視界の端で捉え、瞬時に射撃元の座標を逆算する。
血中ナノマシンのオーバードライブ。
主観時間が引き伸ばされ、ガトリング砲の回転と薬莢の落下速度が極限まで鈍化する。
Mitsu9o1の身体が、立ったままの[Code:77]の背後をすり抜け、右側へと回り込んだ。
空中に浮かぶ硝煙と、[Code:77]の脇腹から噴き出したまま静止している血液の幕を、単分子ブレードの刃先が切り裂いていく。
一歩で間合いを詰め、跳躍する。
旋回が追いつかないガトリング砲の銃身の根元へ、Mitsu9o1は真上からブレードを突き立てた。
火花すら遅れて散る速度で、分厚い装甲板と内部の給弾機構、そして制御用のコアユニットが垂直に両断される。そのまま刃を引き抜きざまに横へと薙ぎ、四脚のフレームの関節部をすべて切り落とした。
着地と同時に、時間が収束する。
背後の防衛機構が、轟音を立てて床へと崩れ落ちた。黒煙とオイルが噴き出し、回転していた砲身が火花を散らして完全に沈黙する。
通路の壁面にあるターミナルが、再びノイズ混じりの緑の光を明滅させた。
破壊された防衛機構の最終カメラ映像から、直前の戦闘データを解析しようとするシステムログが、高速で画面を流れていく。
緑の文字列が、エラー音を一つ残して消えた。
Mitsu9o1は、破壊した鉄の残骸を一瞥もせず、再び正面の通路へと向き直って歩き出す。
等間隔のブーツの音が、コンクリートの床を叩く。
天井から落ちてくる水滴を、彼女は歩きながら数えていた。
ひとつ。ふたつ。
そのすぐ後ろで、ズルリ、と肉と鉄を引きずる音が続いた。
カプセルの山から左手を剥がした[Code:77]が、砕けた左足と裂けた脇腹から大量の液体を滴らせながら、再び歩き始める。
先ほどよりも、足音はさらに重く、不規則になっていた。
だが、その位置は変わっていた。
三メートル後方ではない。
Mitsu9o1のすぐ背後、一歩分だけ下がった「右側」。彼女の潰れた右目の死角を、その壊れかけた肉体でぴったりと埋める位置。
Mitsu9o1は振り返らない。歩調も変えない。
ただ、一定の歩幅で前へと進む彼女の右後ろで、血とオイルを引く不均等な足音だけが、どこまでも離れずに重なっていた。
ここまで、四・一秒。
残り、一〇七七日。
#Scrap
