生まれるまで、残り二四〇日。
。かつて配管施設だった廃墟の一室。
錆びた鉄扉の隙間から入り込む微かな風の音と、壁の奥で水が管を伝う低い反響音だけが、二人の部屋を、静かに包んでいた。
金属のカップが床に置かれる小さな音が鳴る。
「……できたみたい」
彼女の短い一言が、コンクリートの壁にすいこまれた。
その言葉に、ケイは手元の作業を止めた。部屋の空気が、わずかに変わる。
ケイの呼吸が、一度だけ深く止まった。
彼は立ち上がり、彼女の正面で片膝をついた。その大きな両手が、彼女の腹部に触れる。まだ膨らみを持たない、平らな布の上。だが、ケイの指先は微かに震え、まだ何も分からないはずの場所を、確かめるように撫でていた。
「美月《ミツ》」
ケイが呼んだ。声が、震えていた。
ランタンのオレンジ色の光が、彼の目元に落ちる影を揺らしていた。
同じ頃。
重いブーツの音が、鉄扉の外で止まった。
ケイが警戒を解いて扉を開ける。くすんだ作業服に身を包んだ大柄な男が、身体を屈めるようにして部屋の中に足を踏み入れた。美月の父親だった。
美月が近づき、無言のまま父親の手を取って、自身の腹へと当てた。
言葉は多く必要なかった。父親の目尻に深いシワが刻まれ、大きく息が吐き出された。口元が綻び、声にならない笑い声が部屋に響く。
父親は笑ったあとも、美月の腹に触れた両手の、分厚い作業用の革手袋を決して外そうとはしなかった。指先に染み付いた機械油と、錆と、そして沈黙の匂いが、部屋の空気に混ざる。
父親はゆっくりと手を離し、上着のポケットから鋭利な金属片を取り出した。
部屋の奥、剥き出しになったコンクリートの壁に向かう。
ガリッ、と硬い摩擦音が鳴った。
金属の先端が壁を削り、。
何でもない暮らしが続く。
上の階層から漏れ聞こえる換気扇の唸りと、壁の奥を流れる水の音。二人は、その単調な環境音の中で、少しずつ変わっていく腹の重みを共有していた。
ケイは、拾い集めた鉄の廃材で扉の補強を続けている。美月は、配給されたわずかな食料を分け、古い毛布の綻びを縫い直した。
父親は定期的に部屋を訪れた。
言葉は少ない。ただ、彼が来るたびに、壁のコンクリートに金属片が立てる硬い摩擦音が響いた。
縦線が四本並び、その上に一本の横線が引かれる。五本で一束の印。
カレンダーを持たない彼らにとって、壁に増えていくその溝の数だけが、未来へと向かう確かな目盛りだった。
遠くで、重い駆動音が鳴った。
キャタピラが瓦礫を踏み砕く音。コンクリートを削る不規則な振動が、床を伝って二人の足裏に届く。
ケイが即座にランタンの光を消した。
完全な暗闇。美月は息を潜め、両腕で自身の膨らんだ腹を強く抱きかかえる。ケイの腕が、暗がりの中で彼女の肩を引き寄せた。
扉の向こう側を、巨大な質量が通過していく。
錆びた鉄扉のわずかな隙間から、赤い走査線の光が刃のように差し込み、暗い部屋の床を無機質になぞった。
赤い光が通り過ぎるまでの数秒間。二人の鼓動だけが、暗闇の中で重なり合って耳元で響いていた。
やがて駆動音が遠ざかり、再び換気扇の音だけが戻ってくる。ケイが、深く息を吐き出した。
翌日、部屋を訪れた父親が、また壁に新しい線を刻む。
増え続ける五本の束は、すでに壁面の一角を埋め尽くそうとしていた。
生まれるまで、残り一一〇日。
錆びた鉄扉の隙間から入り込む微かな風の音と、壁の奥で水が管を伝う低い反響音だけが、二人の空間を静かに守っていた。
床に敷かれた古い毛布の重みが、彼女の肩を覆っている。
部屋の隅に置かれた小型のLEDランタンが、半径一メートルだけをオレンジ色の光で切り取っていた。光の端に置かれた金属のカップから、固形食料を溶いた、薄い匂いが漂っている。
彼が、毛布の隙間から彼女の膨らんだ腹へと手を伸ばした。
皮膚のすぐ裏側を、小さな何かが、するりと動いた。
内側からの蹴り。彼の指先が、その微かな動きに触れて止まる。ゆっくりと、彼の掌が腹の表面を別の位置へと移動する。そして、また別の小さなふくらみが、手のひらを押し上げた。
「ここと……ここ」
彼が、低い声で言った。少しだけ、声がかすれていた。
ランタンの光が、彼の顔の半分に影を落としている。
彼女が、彼の手の上に自分の手を重ねて、その名を呼んだ。
「ケイ」
「明日は、上の階の配電盤を開けてみる。まだバッテリーが生きているかもしれない」
「……気をつけてね」
「ああ。すぐ戻るよ」
二人の声が、狭い部屋の壁にゆっくりとしみこんでいく。
だが、その静かな時間は、鉄扉の外から近づいてきた重い駆動音によって暴力的に破られた。
金属のキャタピラか、巨大なモーターがコンクリートを軋ませるような連続音。
鉄扉の隙間から、赤い走査線の光が刃のように差し込み、床の埃を照らし出した。
ケイが弾かれたように立ち上がり、部屋の隅に立てかけてあった太い鉄パイプを握りしめる。
光が扉の表面を舐め、次の瞬間、厚さ五ミリの鋼鉄の扉が蝶番ごと部屋の内側へと吹き飛んだ。
埃が舞う暗がりの中に、一つの影が立っていた。
白い人工皮膚で覆われた、四肢を持つ機械。人間に奉仕するために設計されたはずのアンドロイドだ。顔面に凹凸はなく、眼球の位置にある。
機械は彼女の膨らんだ腹へと緑の光を向け、一歩踏み込んだ。
ケイが、鉄パイプを振り上げて機械の正面へ飛び出す。
脳天を狙った全力の打撃。だが、鉄パイプが白い人工皮膚に触れる直前、機械の右手がブレた。
圧倒的なトルクで跳ね上がった機械の腕が、鉄パイプを中ほどからへし折る。
減速すらしないその白い指先は、そのまま彼の胸部中央――胸骨の真上へと直撃した。
硬質な破砕音。
機械の指が、肋骨と胸骨をまとめて粉砕し、肉の壁を貫通して内部へと侵入する。
肺葉が破裂し、気道から空気が根こそぎ搾り出された。彼の身体が宙に浮き、毛布の敷かれた床へと叩きつけられる。
折れた肋骨の断端が内臓を突き破り、口から大量の赤い飛沫が吐き出された。
機械の緑のスリットは、倒れた彼を一度も見下ろさない。
再び彼女へと視線を固定し、無機質な歩みを進める。
床で痙攣する彼が、血に染まった指を伸ばし、機械の足首を掴んだ。
砕けた肺から残りの呼気と血の泡を押し出し、喉の奥からひどく掠れた音を絞り出す。
「ミ……ツ……」
それが、彼が発した最後の音だった。
機械の左足が正確な軌道で振り下ろされ、彼の頸椎を斜め上から踏み砕く。
骨が断ち切られる乾いた音が響き、彼を動かしていたすべての信号が永遠に遮断された。
機械の白い手が伸び、毛布の上で固まる彼女の左腕を掴む。
抵抗する間も、言葉を発する隙すらも与えられない。機械は彼女の身体を引きずり起こし、扉の外の暗闇へと無造作に歩き出した。
彼女は、振り解くことも、後ずさることもできなかった。
ただ、空いた右腕を自身の腹へと強く回し、その膨らみを抱え込むようにして庇うことしかできない。
引きずられる素足がコンクリートを擦る音だけが、遠ざかっていく。
誰もいなくなった部屋。
倒れたランタンの光が、床に広がる黒い染みを不規則に照らしている。
壁面には、鋭利な金属で刻まれた無数の細い溝があった。四本の縦線の上に、一本の横線。五本で一束の印。
一番右端の最後の一束だけは、縦線が四本で止まっていた。横線は引かれていない。
